2011年9月24日土曜日

柴門ふみの『反逆天使の墜落』

 読んだ後で背筋がぞうっとするマンガです。

 柴門ふみは高橋留美子と双璧をなすマンガ家です、少女マンガを描かない女性マンガ家として。どちらも少年マンガや青年マンガを描いて人気を得ています。

 表題のマンガは1980年の「マンガ奇想天外」No.1 に載ったもので、ほとんど間を置かずに単行本に収録されています。

 以下にあらすじを載せます。

 幼い頃に、八畳間で一人寝る私は、薄明かりの中で「クリスマス・ツリー」と名付けたものを見ながら眠ります。それは、人や車や建物などの飾りをぶら下げ、回転しながら飾りをらせん状に吸い込んでいきます。手を伸ばせば届きそうで届かない、そのうちに眠ってしまいます。
 成長とともにクリスマス・ツリーは現れなくなります。

 ホテルで一瞬クリスマス・ツリーが見えます。「渦の中に 吸い込まれ そうで 吸い込まれ なくて」
 男は言います、「吸い込まれない方法(中略)うんと食べて うんと太って 樽の様に なるのだ」「ポーの短編に あるだろう 円筒状のものが 渦にまき込まれる速度が 一番遅い」「落ち着いて 太るには 家庭に入るのが(後略)」

 男と結婚して赤ん坊が生まれますが、「もはやクリスマス・ツリーは 断片すら見えなくなって しまったのですが、 失なわれてしまったものに対する 執着も又、私の内で どんどん膨んでいったのでした。」
 泣いている赤ん坊の傍らで、灯りもつけずにクリスマス・ツリーの現れるのを待つ私。「息子が かわいく ないのか!」と夫に言われ、「ぶよぶよして 生温かくて 気持ち悪い」と答えます。
 街に逃げ出した私の目には、遠近感を失った人びとしか見えません。
 「(前略)墜落の感覚をおぼえました」「おちた私の足元には 眠り続ける私がいました」「頭上では 街と人びとが回転を続けていました」「本当の私は、実はまだ あの八畳間で、眠り続けているのだ」と私は気づきます。

 暑い日に、夫は赤ん坊を連れてパンダを見に動物園に行こうとします。上り坂は夫がベビーカーを押します。私は、下り坂は楽だからと夫からベビーカーを受け取ります。頭上でクリスマス・ツリーの鳴る音を聞いて、私はベビーカーのハンドルから手を離します。坂を下り落ちるベビーカーと追いかける夫、追いついたところに大型トラックが…。

 坂の上で私は眠っているあたしに言います。”ほら あたし 目が醒めたでしょ” ”クリスマス・ツリーが 見えるでしょう” ”立ち上がって 腕を差しのべるのよ”と。
 「まだ円筒形でない おもりもない あたしはまっすぐに吸い込まれてゆく 渦をつっ切り 加速をあげて 回転する間もなく」
 最後のページは、「光の点をめざして……」と、両手を挙げた子どもの私が吸い込まれていきます。
 でもこれは吸い込まれると云うよりは、上に向かって落ちていくというほうがいいのかもしれません。

 このマンガを読んだのは、30年前です。そのときは、なんか怖いなぁ、と思ったものでした。たぶん、母性本能はどこに行ってしまったのかとの思いがあったのでしょう。
 最後のページでは、中学生の時に読んだ詩を思い出していました。作者もタイトルも忘れてしまったのですが、寝転んで青空を見ていると、空に落ちそうになって草をぎゅっと掴むと言う詩です。
 また、このマンガのタイトルの意味がよくわかりませんでした。
 しばらく経ってから読み返したときに、読み終えて最後のページで涙がこぼれました。誰も救われないその寂しさかもしれません。

 さて、改めて読んでみて、主人公の私はそれなりに救われるのかなぁとか考えつつ、初めて読んだ頃とは全然別のことが頭をよぎりました。
 裁判になったときに、心神耗弱が認められるのだろうかとか、未必の故意なのだろうかなどという大事かもしれないけれど、作品の本質とは無関係のことですが。


 タイトル『反逆天使の墜落』
 書名『ライミン・フーミン』
 出版社 奇想天外社 奇想天外コミックス
 昭和55年6月15日初版発行

 帯には、柴門ふみ処女短篇集とあり、吾妻ひでおの推薦文があります。


 167ページの最後の齣に"ポーズの短編"とありますが、これは"ポーの短編"です。このような誰でも気づく誤りは訂正しないのでしょうか。「マンガ奇想天外」での誤りがそのままになっているものですので。

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